5. 十字架の力
20世紀末までの自然科学における発見の中で、「ことばの神」が明らかにされてきました。
自然対数の底 e は、1727年頃 レオンハルト・オイラー(神学学士、数学者)によって提唱されました。すなわち、天地創造の時から多くの時を経て、時代の途中から現れたものです。(一方、π の起源は古い)
御子イエス様も、旧約時代と新約時代の中間にお生まれになられました。(BC4年頃) このイエス様が、父なる神を解き明かされたのです。そして、十字架の贖いによって、罪に堕ちた人類をお救いになられました。この十字架こそ、全歴史における、神様の遠大なご計画の中心であり、目的です。
また、自然啓示により、 π → 2π になるとき −1 が +1 に復元するように、「十字架」の後は
必然的に 「復活」です。父なる神が、その偉大なる力によって”回復・復元”して下さるからです。
(1) バプテスマのヨハネ:
イエス様の十字架の死の 以前と 以後とで、旧約時代(古い契約: 律法)、新約時代(新しい契約: 恵み)として区別されます。(「神殿の天幕が上から下に裂けた」) では、旧約時代の聖徒たちの位置付けはどうなっているのでしょう?彼らは、「信仰」によって神様の前に「義」とされました。そして、新約時代になった今では、動物をいけにえとしてささげる等の律法の定めが廃棄され、ただ
御子イエス様の十字架の贖いを信じる信仰のみによって、罪がきよめられ、(異邦人であっても)神の民に加えられるようになりました。
「11 あなたがたによく言っておく。女(複数、Among them that are born of women )の産んだ者たちの中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい。」(マタイ11:11)
マタイは「使徒」であると同時に、「教師」です。彼はイエス様のことを、ほぼ 教師として見ています。そして 旧約から新約への変化を最も記述しています。(マルコでは 「主のしもべ」、ルカ では「救い主」、ヨハネでは「人として来られた神のことば」 ・使徒ヨハネ自身は透明人間!)
真の「教師」とは、十字架を解き明かす器です。
このみことばは、バプテスマのヨハネが 天国全体で最も劣る者 という意味ではありません。 彼は胎にいる時から聖霊様に満たされていました。 「女たちから生まれた者」とは
イスラエルの旧約時代の聖徒たちのことで( ・・・ イスラエルは しばしば「女」にたとえられます(これは単数、黙示録12:1、5)。=「乙女イスラエル」)、ここで言う「天の御国の一番小さい者」とは、御使いの中で一番小さい者という意味ではなく、イエス様の弟子たちのことです。(パウロは自分のことを、「あらゆる聖徒たちの中で最も小さい者」と言っています。実際は、天国で
最も大きな者の一人とされています。)
そして、「主イエス様の通られる道をまっすぐにする」働きをした バプテスマのヨハネは、旧約時代の聖徒(イエス様が十字架で死なれた時間よりも以前の信仰者)の中では、最も偉大である、と評価されているということです。
バプテスマのヨハネは、牢獄に入れられているときに、一瞬 信仰が揺らぎました。
しかし、この種類の揺るがしは、決してイエス様に”つまづいた”のではないということです。ペテロがイエス様が十字架にかかられることをいさめたことで「下がれ、サタン」と言われたことと同様で、ごく一時的なことでした。一方、イスカリオテのユダは、初めから不信仰であり、継続的に主の財布から盗み、そして、(当然の帰結として、)裏切りました。裏切る直前まで
主から権威が与えられ、他の弟子たちと共に御国の福音を伝える働きに加えられていたにもかかわらずです。
神のさばきは、罪の目盛りが満ちた時におこなわれます。
したがって、このみことばは、御子イエス様の十字架が、いかに 偉大な力のあるものであるか、というあかしです。新約時代に生かされている私たちは、恵みの時代の只中にいる
ということです。
(2) 畑に隠された宝、高価な真珠:
「44 天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである。
45 また天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。
46 高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである。」(マタイ13:44−46)
このみことばは、前後関係から 一貫して、主の側から見た救いの様子を描いています。(マタイ11章の「王国の奥義」という連続した9つのたとえの内の2つ)
もし、商人を求道者やクリスチャンととると、”行いによる義”になってしまいます。
したがって、 持ち物をみな売り払った商人 = イエス様、 畑の宝 = ユダヤ人クリスチャン、 海の真珠 = 異邦のクリスチャン、 という意味です。
・ 「地」(=収穫の場合は 畑)とはイスラエルのこと、「海」とは異邦のことです。これは、黙示録13:11、1 のそれぞれ 「にせ預言者」と「獣」の出所を解釈するのにも用いられます。 ( → イスラエルと終末の流れ )
イエス様は、人としてお生まれになり、実に 十字架の死にまで従われました。すなわち、これらの商人たちのように、多大な犠牲を払って 宝と真珠を買い取られました。
(3) 赦されない罪:
「30 わたしの味方でない者は、わたしに反対するものであり、わたしと共に集めない者は、散らすものである。
31 だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。
32 また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、今のこの世でも、きたるべき世(×)でも、→ 近い将来であっても、(○)ゆるされることはない。」(マタイ12:31、32)
ビザンチン型ギリシャ語聖書より、
「32 και ο? αν ειπη λογον κατα του υιου του ανθρωπου αφεθησεται αυτω ο? δ αν ειπη κατα του πνευματο? του αγιου ουκ αφεθησεται αυτω ουτε εν τουτω τω αιωνι ουτε εν τω μελλοντι 」
τω μελλοντι = the interim futur (to come) =inpending ・・・ (単純に)近未来の時代 ○ 、 次の永遠の世×、未来永劫× cf. τουτω τω αιωνι= this interim world (age) ・・・ (単純に)イエス様のおられた時代
・・・ * この「赦されない罪」が適用されるのは、イエス様が宗教家たちに語られた その時だけではなく、主の再臨前までの 今の世でも 適用されます。 人は、イエス様のところに来れば、どんな罪でも赦されますが、(特に、反カリスマ的に)聖霊を悪霊のわざのように言うならば、救いを失います。
「あなたがたの子らは誰によって追い出すのか」とイエス様が言われたのは、当時パリサイ人たちの中に
悪霊追い出しをする人たちが普通にいたからです。 イエス様のもとに彼らが連れてきた「悪霊につかれ、盲目で、口もきけない人」は、彼らの仲間には追い出せませんでした。悪霊の名をその人の口から聞きだして追い出すのが 彼らのやり方だったからです。 イエス様は、この人を完全に解放して、イエス様の神性を証明されました。 にもかかわらず、パリサイ人たちは、イエス様が ベルゼブル(=ハエの神)によって悪霊を追い出していると、ひどい言いがかりをつけたのです。
「御霊のことは、御霊によってわきまえます」、「(特に、みことばの福音的な解釈について)内なる聖霊様が教えてくださるから、誰にも教えてもらう必要はありません」とあるように、私たちは救われて
聖霊様を受け、その方が いつも私たちに真理を語ってくださいます。
イエス様は、そのご生涯において、すべて聖霊様によってわざをなされました。聖霊様による働きが、地上における主の働きそのものだからです。イエス様は神の第2位格、にもかかわらず、地上では聖霊様に全面的に頼ってわざをなされました。(ヨハネ5:19)
また、聖霊様と共に伝道しないと、逆効果です。(30節)
32節の「後の世」とは、千年王国や 新天新地のことではありません。なぜなら、主の再臨のときに、私たちは「新しい 朽ちない体」が与えられ、その状態で千年王国を過ごし、そのときはサタンは縛られ地の底にいるからです。この時以降には、もはや惑わされることはありません。
また、「御霊の賜物はすたれます」は、イエス様の再臨の時、この千年王国になって成就します。イエス様が地上で治められる「義の支配」の時は「完全なもの(=イエス様)が現れる」時だからです。(Tコリント13:10)
・ 筆者がかつていた N県の福音派で、反カリスマの先頭に立っていたある教会役員(数十年も役員だった)の人は、その後、なんと”まひかり教”に行ってしまった! 初めから救われていなかったのに”宗教の霊”を受けてずっと役員をやっていたのか?(マタイ25:14−)
それゆえ、”反カリスマの教理”には気をつけなければなりません。
パリサイ人(宗教家)やヘロデ(政治家)のパン種とは、「奇跡」が無い
という所から議論を開始する不信仰な態度のことです。(マルコ8:15) 私たちは、イエス様の近くにいて奇跡を体験し続けることにより、「思いが神のものに刷新」(ローマ12:2)されるのです。創造主である神様の考え方、恵み深い神様の視点から、すべての物事を見ていくようになるべきです。
聖書には、”霊的なことを全部否定しなさい”とは書いてありません。むしろ、
@ 「御霊の賜物(特に、預言を語ること)を、熱心に求めなさい」(Tコリント14)、そして、その上で、「見分けなさい」と書いてあります。 また、「その霊が 神からのものかどうかを 試しなさい。」(Tヨハネ4:1)ともあります。
カリスマをすべて否定することを教える者は、「救い」を失う すれすれの所にいることになります。(特にその動機が、悪意ある
ねたみや 恐れの場合) イエス様の十字架も、宗教指導者たちのねたみによるものでした。 「救い」という
「1タラント」(タラント = 賜物)だけでは、それをも失ってしまう危険について書かれています。(「持っていない者は持っているものまでも取り上げられる。」) また一方、「多く与えられた者は多く求められる」の原則により、
リバイバルの時など、聖霊様のご臨在の強い時は要注意。(「ウザ」、「アカン」、「アナニアとサッピラ」 など)
また、聖書的根拠のもう一つのほう、 A 「信じる者すべてに与えられたしるし」の箇所を含む マルコの福音書16:9−20 の部分は、グノーシス主義の影響を受け、大幅に改ざんされたシナイ写本をはじめとする”アレキサンドリア型”写本を底本とする新約聖書全般で 削除されています。 本来は、この箇所は初めから存在し、KJV(キング・ジェームズ・バージョン)等の”ビザンチン型写本”によるものでは普通に存在します。( → 聖書改ざん修復 )
・ 自然啓示からは、
eiθ については、 θ は π のときに −1 (御父の定めた時に贖われる)、
また、 e + α → e (α(肉の成分) → 0) のように きよめられる。(キリストに似たものになる)、
しかし、 e−x (x : 正の実数) は、 i (聖霊様) が無いので、いくら x の値を変えても(人間的にいくら努力しても) そのままではキリストのものではありません。ただ聖霊様によって、 e i π = −1 (十字架による贖い) を受けることができます。
(4) 信仰 ・・・ 十字架と 復活の道:
「神のことば」 が、すべてのことを成し遂げます。 神のことばは信仰の土台です。(イザヤ55:11−13) また、神のことばは
「種」です。(ルカ8:4−15、 ただし、種には良い畑が必要です) 示された、捉えた、あるいは、預言などで語られた
言葉が、本当に 神様からの「ことば」ならば、そのようになります。祈って 神様からの言葉を捉えたならば、大勝利です。 なぜなら、みことばの約束のとおりに、(人の努力とは無関係に、)神の「ことば」が、一切のことを成し遂げるからです。
ではいったい、神の言葉はどのように成就するのでしょうか?
人としてこられた神のひとり子イエス様は、十字架にかかられる直前、ゲッセマネの園で祈られた時、葛藤されました。(十字架上の一瞬とはいえ、)永遠の以前から一緒だった御父と切り離される悲しみのあまりに 「血の汗」を流されました。 しかし、御父の みこころに従うことを 自ら選ばれました。すなわち、ご自身の意志で、十字架にかかられたのです。
十字架上で、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」とは、父なる神と切り離された状態を宣言されたものです。その後、死の直前には、「父よ。わが霊を 御手にゆだねます」のように 御父との関係が回復しています。 イエス様は、十字架上で、痛み、苦しみ、はずかしめを受けられ、尊い 血 を流され、そして 十字架上で (信じる)全人類の罪の贖いを「完了(=罪の負債を完済)」(ヨハネ19:30)されました。
(・ イエス様は、十字架の死後、よみ に下られた時、ノアの洪水のときに滅ぼされた霊たちに
みことばを宣べ伝えられました。(Tペテロ3:19、20) もちろん このとき、イエス様は
よみで苦しまれたり、ましてサタンの性質を帯びられた、などということはありません。イエス様は、永遠の昔から永遠の未来にいたるまで
変わらないお方です(* 不変な数学定数 e のように)。 ・・・ すべては、十字架上で「完了」されました。)
「主の苦しみの 不足している部分」、「救いの完成」(ピリピ2:12)とは、十字架の不完全さを言っているのではありません。これは、残った重荷が、私たちが歩むべき神様の計画
=信仰の歩み であることを言っています。 イエス様が十字架で、大部分の重荷を取り除いてくださったので、(天秤棒の長さの比から、)
「主のくびきは 心地よい(快適である)。」(マタイ11:30) ・・・ 残った重荷を負うことは、私たちにとって、ちょうど良い快適なもの、そして 上からの平安が伴うものです。そして神様は、信仰の歩みによって 喜んでくださいます。(ヘブル11:5、6) それゆえ、信仰によった分が 天に積まれる宝になります。信仰によらない人間的な努力の部分は無効です。
主のみこころに沿った信仰、神のことばによる信仰の道を歩むなら、必ず 十字架と 復活のプロセスを通ります。そして、神のことばが成就するまで、それぞれの期間があります。
ヨセフは、「12人の兄弟の中で敬われる位置になる」ことを神様に語られてすぐに、奴隷として売り飛ばされ、さらに
牢獄に入れられ、語られた祝福とは逆のことが起こって 落とされました。
いにしえの信仰の勇者たちは皆、この道を通りました。 アブラハムは25年、ヤコブは20年、ヨセフは13年、モーセは40年、そしてイエス様の使徒たちは
その生涯の間、信仰の試練の中で待ちました。小さな信仰には小さな試練、大きな信仰には大きな試練が伴います。「忍耐」とは”待つ”ことです。 主の再臨までの期間は、主の十字架の死と復活から、約2000年もあります。
また、「殉教」は、あらゆる信仰の歩みの中でも、「より優れたよみがえり」となります。(ヘブル11:35)
・ 自然啓示は偉大です。 天地万物を造られた神様が、十字架(−1)の後に、絶対的な復元力(+1)を与えられる、ということが示されているからです。
「ことばの神」は、「愛」 と 「力」 の神です。